玖珠川本流域
玖珠川は、玖珠盆地の中央部を、東から西へ大きく蛇行しながら流れている。九重町飯田高原から流れ出る鳴子川を源流とし、九酔渓を下り、同町引治のJR引治駅の近くで、同町野矢から流れ出る野上川、菅原・町田からの町田川の三つの川が合流して、玖珠川となる。さらに下流で松木川(九重町)・森川(玖珠町)・太田川(玖珠町)などが合流、日田へと流れて行く。
この豊かな川のほとりで人々は、古代から営みを続けてきた。この川の名が記録にはじめて表れるのが『豊後国風土記』。それによると、日田郡石井郷の項に「流通球珠川」とあり、「その源を直入郡九重、大船の二山間に発し、球珠郡田野に出て、流れは郡内を横ぎり、日田郡五馬荘西に至る」とある。
次は康治二年(1143)の大政官牒に見られる「球珠庄」という荘園の四至に示された、「東限大河」がこれにあたる。以後この川に関する記録はほとんど見いだせないが、江戸時代の『豊後国志』の玖珠郡の条に、山川の名として「玖珠川」の名が見える。
この川のほとりに人が住みついたのが、縄文時代草創期(約一万年前)と思われる。それは松木川と玖珠川の合流点近くの、洞穴(九重町二日市洞穴)の中であった。以後人々はその洞穴を繰り返し使用し、狩猟による生活を送っていた。人々が農業を始めると、洞穴から出て平坦部に住むようになり、小田の台・山田・長野・大隈一帯・戸畑一帯・岩室旦の原(以上玖珠町)、粟野・引治・松木・奥野・野上・野矢(以上九重町)など広範囲にその生活跡を見ることができる。
さらに時代が進むと、首長権が確立され、村が生まれ、その村が集まって郷ができる。「和名抄」(九三二~九三七)によると、玖珠郡には「小田(山田)・今己(こご)・永野」の三郷がある。これが鎌倉時代の弘安八年(ー二八五)の『図田帳』によると、「長野荘・山田郷・帆足郷・古後郷・飯田郷」の一庄四郷に増えている。江戸時代になると、この一圧四郷のうち、帆足郷・古後郷は森藩領となり、他の郷は徳川幕府直轄領(天領)となる。
(玖珠川歴史散歩より)
執筆者-内恵克彦

昭和十八年、北九州市門司区に生まれる。
現在、玖珠郡史談会理事。おおいた石造文化研究会参与。大分県文化財保護指導員。九重町文化財調査員会会長。玖珠郡史談会事務局長。玖珠町文化調査員。
著書に、共著『西南地域史研究』(第五輯所収「豊後国玖珠路の石造物」・文献出版刊)同『九重町文化財調査報告書』など。
現住所・大分県玖珠郡九重町大字右田3496
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