清原魚返氏と魚返村
慈恩の滝を過ぎて、玖珠に入ると、玖珠川の北岸一帯は中世の清原魚返氏一族の所領だった地である。魚返氏は、『集成豊後清原系図』(昭和四十八年発行)によると、始祖正高の子正道の次子山田次郎大夫通成の二代後に栗野六郎成綱と古後六郎大夫通言に分かれる。粟野氏から、粟野・小田・魚返・横尾氏に分かれる。
系図によると、魚返村を領有するのは、小田三郎成通の子で、魚返三郎成秀である。『豊後国図田帳』(鎌倉時代、一国ごとに田畑の面積、領有関係などを調査、記録した土地台帳)によると、魚返村の領有者には、成秀から三代後に魚返次郎通秀・三郎通資・弥六通直・九郎政綱・小次郎通近の五人の名が見られる。建武三年(一三三六)三月ごろ、玖珠郡の清原氏は北朝方と南朝方に分かれて戦うことになる。
野上氏・綾垣氏・帆足氏などは北朝方に、小田氏と魚返氏は南朝方として、玖珠郡切(伐)株山(玖珠城)に立てこもる。古文書には魚返氏側に宰相房なる人物の名が見え、玖珠城八ヵ月間の籠城戦の食糧の確保に当たっていた。この人物が、魚返氏の中のだれであるか、系図などから見ても特定することができない。
この玖珠城の戦いの後、敗れた南朝方の各氏の領地は没収され、北朝方の勲功のあった将士に分配されている。魚返氏も当然、領地を失ったと思われるが、現在、古文書が残されていないので、どの程度であったか分からない。しかし、魚返氏の中にも、北朝方として戦った人物もいたようで、魚返二郎三郎惟通には、北朝方の将一色直氏の軍勢催促が届いている。従って宰相房など天皇方についた魚返氏の所領は、南北朝の戦い以後、他の人に渡ったものと思われるが、惟通などは以後も魚返村の一部を領有していたものと思われる。
玖珠町大字戸畑山の口森家の横薬師堂前に、宝篋印塔や、六地蔵石幢の笠などが数段に積み上げられた石塔がある。この石塔の塔身(宝篋印塔の塔身部分、銘文は一部欠けていて見えない)に、「前紀刕太守昌翁繁公禅定門□、□文明四白壬辰三月念三日孝子敬白」とある。当地方も魚返氏一族の所領内であり、魚返氏で「紀伊介」を名乗った人物は、先の魚返二郎三郎惟通の系統で、紀伊介成秀がいる。二郎三郎惟通から考えても四・五代後の人であろうと考えられる。この紀伊介成秀の子供が、供養塔として造立したものであろうか。
現在、魚返姓は玖珠郡内に数十軒あり、中には中世「魚返文書」を保存する家もある。
(玖珠川歴史散歩より)
執筆者-内恵克彦
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