| 飯田高原 |
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飯田高原は、九重町の南部に広がる。波状の美しいスロープは、標高800メートルから1200メートル、東西10キロ南北8キロにおよぶ。飯田高原の名付け親が、目本のアンデルセン、久留島武彦翁だとは意外と知られていない。玖珠地方のボーイ・スカウトの指導者でもあった彼は、大正15年8月、高原一帯で開催された日本ジャンボリーの際、玖珠原(くすばる)と呼ばれていたこの高原を「飯田高原」と名付け、全国に紹介した。(西日本新聞 やまなみ登山/九重 日田玖珠 津江山系より抜粋)
飯田高原の南にそびえる九重連山は、父のごとき威厳と慈母のごときやさしさがあり、高原にたえず雨と水流を恵んできた。これを気象的に見れば、 南の久住高原で暖められた上昇気流と、北の飯田高原を渡る涼風とが九重連山の上空で出合って混合するとき、雨雲となり、時には雪となり、その七割が飯田地 区に降りそそぐ。さらにも連山の雨を集めた「坊がつる」の水源までが、北へ流れ下る。名実共に玖珠川の源である。(玖珠郡史談会編 玖珠川歴史散歩)
写真撮影 佐藤信義さん[玖珠郡九重町松木在住]
飯(はん)田(だ)高原(田野)
九重町南部から久住町にかけて連なる久住山、大船山を盟主とする山々(くじゅう連山)の北麓一帯に広がる九州を代表する火山性の高原で、東は千町無田、西は地蔵原、南は長者原に及び、東西、南北それぞれ約8㎞にわたってゆるやかな起伏が続き草原のうねりを見せる。
九州横断道路が湯布院町の小田の池、山下湖を過ぎて崩平山(くえんひら)の麓の森林地帯をぬけると、やがて朝日台に出る。ここから展望すると 涌蓋山(1,500m)、黒岩山(1,503m)、三(み)俣(また)山(1,745m)、星生山(ほっしょう)(1,762m)、さらには平(へい)治 (じ)岳(だけ)(1,643m)などの陰影のある山容を背景に、赤いサイロや、放牧牛が点在する飯田高原の牧歌的な風景が展開する。標高は 1,000m~1,200mと高く、水田や高原野菜の耕地がところどころに見られるほかは、ほとんど手つかずの草原、疎林原野で、大自然の息吹きをそのま まに伝えている。
朝日台から眼下を見ると、見事な美田が目につく。ここが千町無田(千町牟田)で、繁栄と没落の朝日長者伝説の舞台であった。長者伝説は全国各地に残るが、雄大な飯田高原が背景にあるだけに、この話を語りついできた人々の夢がよく伝わる。
千数百年の昔、この地の浅井家は代々原野を開拓して田を増やし、17代長治のときには“前千町、後千町”といわれるほどの美田を有し、商家な どが軒を連ねて大いににぎわいをみせた。ある年、京にのぼった長治は、皇子の行方がわからなくなったという噂を耳にしたが、それは近くの真名野長者の1人 娘と結婚する男ではないかと思い、朝廷に言上した。それが事実だったので、天皇は喜び「朝日」の号を授けた。以後朝日長者と呼ばれ、権勢はますます強まっ た。2千町歩の田植えは、毎年多勢の人を集めて、1日で終わらせるのがならわしであったが、ある年の田植えは今にも日が山に沈もうとしているのに終わらな かった。この様子を見た長者は、高台に登って手にした扇を開き傾いた西日を「返せ、返せ」と招いて、太陽を止めてその間に田植えを終えてしまった。太陽を も自由にあやつれる長者の勢いだったのである。
しかし、その後長者はありあまる金銀財宝の隠し場所に困り、宝を山の中に埋めたが、埋蔵の場所が人に知れることを恐れ、運搬人や牛をみんな殺 し、大河原の湯に沈めてしまった。この悪事のため、湯河原の湯は枯れ、悪病が広まるとともに、さしもの美田もすっかり荒れ果てて、長者は衰運に向って坂を ころげ落ちるように没落していったという。
千町無田一帯は、今でこそ美田に生まれかわっているが、実際は高原性の冷涼な気候から稲作に適さず、明治の中頃までは完全な荒れ地であった。 これを開拓したのは、筑後川下流域の水害被害農家の入植者たちで、稲作の技術的進歩も手伝って今日の美田を生むことになった。なお、飯田高原の南一帯を長 者原と呼ぶが、これは長者伝説からとった呼び名で、大正時代、別府観光の先駆者油屋熊八翁によってつけられたもの。
九州横断道路は千町無田から長者原、そして沿道に寒の地獄、星生温泉などの長者原温泉群を見ながら熊本県との県境近くの牧の戸峠に延びてい る。春は雄大な野焼きが終わるとアセビやコブシ、スミレなどがかれんな花をつけ、夏は緑で原野を埋め尽くし、秋はススキたなびく中で牧草刈りの風景を見 せ、冬は長者原一帯から牧の戸峠あたりまで霧氷の花を咲かせてスケールの大きな四季の移りをくり広げている。
この高原の東南端の九州横断道路沿いには、環境庁の長者原ビジターセンターを中心に阿蘇くじゅう国立公園の集団施設地区として、宿泊、休憩、キャンプ場などが整備され、久住山、大船山などの登山基地となっている。
久住山へは、くじゅう登山口(JR久大本線豊後中村駅から日田バス40分)からは1時間30分ですがもり峠へ、さらに1時間で頂上に至る。途中、硫黄山中腹の噴煙や、海岸の砂浜を思わせる北千里がくじゅう山群ならではの興を盛り上げ、登山者の人気も高い。牧の戸峠(同50分)からは、沓掛山、西千里を経て1時間40分で山頂に至る。また、長者原から雨ヶ池を経て法華院に至るコース(九州自然歩道)もよく知られている。
ここから県道田野宝泉寺停車場線を20分ほど歩いたところの大将軍地区に、川端康成の文学碑が建っている。文学碑は表面に「雪月花時最思友」と自筆の碑文、裏面に飯田高原の景色を描写した小説「波千鳥」の一部が刻まれていて、付近一帯が公園化されている。
長者原では、山間の寒冷な気候を利用して、2月下旬の厳冬期に九州ではめずらしい九重氷の祭典が催される。世相を反映した雪像などが展示されるほか、氷のすべり台も造られて、冬を楽しむ家族連れの姿が多い。
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