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豊後清原氏の成立
最初に中世を通じて玖珠郡を領有した、豊後清原一族について考えてみたい。豊後清原氏の成立伝説は、平安時代末期に少納言清原正高が醍醐帝の一の宮章明親王の姫小松女院と恋に落ち、これが帝の知る所になる。正高は解官の上、但馬の守とされ、ついで豊後国玖珠郡に左遷された。
天延元年(九七三)三月十八日豊後日出庄に着船、同二十日豊前下毛郡宮園村に至り、ついで玖珠郡に着いた。ここで正高は山田郷の地頭矢野検校藤原久兼の館に入り、その娘と結ばれ、後に長野荘に居館を造って移り住んだ。二人の間には嫡子正通(道)が生まれるが、やがて正高は勅免により帰京することになる。
京では山科の里に居住したが、万寿四年(一〇二七)二月十五日薨じた。後を継いだ正通(道)には三人の子供が生まれ、それぞれに玖珠郡の四郷一荘を分与した。長子長野助通(道)に古後・帆足二郷を与えた。これが長野氏の祖となる。次子山田通(道)成には山田郷を与え、この山田氏から古後・平井・太田・小田・魚返などが輩出し、さらに栗野・今村・原田・横尾・志津里・原口・綾垣などの諸士も輩出する。
三子飯田通(道)次には飯田郷を与え、飯田氏からは帆足・恵良・野上・松木・森・飯田氏に分かれ、さらに片平田・岩室・右田・中島・見良津などの分流が生まれる。以上が『船岡新宮ハ幡縁起』などに見る正高伝説の概略である。
しかしこの伝説は後世に書かれた諸系図や、覚書などによって伝えられたもので、年代などにくい違いが見られる。さらに現在まで残された諸資史料の中を見ても、平安時代における正高に該当する人物はみあたらない。したがって当然小松女院と清原正高の悲恋物語はなく、三日月の滝の伝説もなく多くの矛盾点はあるが、清原氏の祖となる人物が十一世紀の前半ごろに、玖珠郡に下向土着したのは事実であろう。
その原因は悲恋のはての配流なのか左遷なのかはわからないが、清原氏が中央の権力者の命により、玖珠に入
部、その居館を長野庄にかまえ、子孫が土着して郡司職を相伝したものと考えられる。さらに郡内の諸郷を開発し、分家をくり返し「国侍持ち切りの国」として、清原十二家とも二十四家とも呼ばれるほどの武士団に発展していくのである。
(玖珠川歴史散歩より)
執筆者-内恵克彦
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